読書記録03:金色夜叉
尾崎紅葉『金色夜叉(上)』『金色夜叉(下)』岩波書店、1939年
あらすじ
鴫沢宮は、高等中学校の生徒である間貫一の許婚である。しかし、宮は金の誘惑にひかれ、富豪の息子である富山唯継の元へ嫁いでしまう。彼女に裏切られた貫一は、宮を足蹴にし、学業を止め、復讐のため高利貸となる。しかし、その心は満たされないでいた。
「再来年の今月今夜…………十年後の今月今夜…………一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死でも僕は忘れんよ!」
『金色夜叉』に関するあれこれ
熱海市には、本作に登場する貫一とお宮を模した像がある。
貫一お宮の像
各方面から女性蔑視の声が起こったそうだが、原作を曲げるわけにもいかず、多少表現を優しくして制作された。
この小説を読んだ後に熱海へ聖地巡礼してみるのも面白いかもしれない。
本作は、読売新聞に1897年から1902年まで連載されたが、執筆中に作者である尾崎紅葉が死亡したため、未完となっている。
感想
いかんせん、口語文が普及する前の明治時代に書かれた小説であるため、文体が読みづらい。しかし、読めないほどではない。ゆっくりと理解しながら読み進めていくと、だんだんとこの小説の面白さに気付いてくる。当時の人たちは、さぞ物語の行く末に熱狂したことだろう。未完だけど。
貫一が熱海で宮と決別する場面は非常に有名で、本作最大のみどころ。しかし、序盤の場面である為、ひとまずここまで読めば、最悪リタイアしても問題ない。未完のせいもあってか、語られるのは殆どこの場面だけだし。
その後は、復讐と言っても、特別宮や富山に対して何かをするという訳でもなく、貫一の高利貸としての生活が描写されていく。
やはり、一番面白いのは、熱海の海岸でのシーンだろうと私は思う。次点で、死に瀕した宮を貫一が許すシーン。まさかの夢落ちには驚いた。
名作ではあるが、どうせなら完結させてほしかったと言うのが私の個人的な意見である。二葉亭四迷の『浮雲』も確か未完だったし。未完小説が多い。まだ打ち切り小説のほうが諦めが付くと言うものだ。
打ち切り小説なんてものが存在するのかは解らないが。
余計な話はここまで。調べたところによると、弟子によって完結編が執筆されているらしいので、気になる人はそちらも読んでみてはどうだろうか。
読書記録02:アルジャーノンに花束を
ダニエル・キイス著、小尾芙佐訳『アルジャーノンに花束を(新版)』早川書房、2015年
あらすじ
32歳にして幼児なみの知能しかない、ドナー・ベイカリーで働く青年チャ―リィ・ゴードン。そんな彼のもとに、大学の先生が手術で頭をよくしてくれるという話が舞い込む。これに飛びついた彼は、同様の手術を受けた天才白ネズミのアルジャーノンを相手に検査を受けた。やがて、手術により天才的な知能を獲得した彼は、人の心の真実について知る。
ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。
『アルジャーノンに花束を』に関するあれこれ
本書は1989年に早川書房により単行本として出版されたものの新版。
著者のダニエル・キイスは1959年に発表した中篇「アルジャーノンに花束を」でヒューゴー賞を受賞。これを長編化した本作がネビュラ賞を受賞し、ベストセラー化。
ちなみにヒューゴー賞とネビュラ賞とはアメリカにおける2大SF文学賞のこと。この二つの賞を同時受賞することを「ダブル・クラウン」というが、本書の中篇がヒューゴー賞を受賞した1959年には、ネビュラ賞が存在していなかった。(ネビュラ賞創設は1966年)
感想
まず、ページをめくって衝撃を受けた。本書は幼児並みの知能しかない32歳の青年チャ―リイ・ゴードンによる、自身が受けた手術の経過報告という形式をとっているのだが、文体もそれに即したものとなっている。
つまり、前半の文章は幼児の作文のような文章が忠実に再現され綴られているのだ。これは、本書を訳した小尾芙佐の功績よるところが大きいだろう。
こう言った文章を読み慣れていない私は非常に苦戦した。文法上の間違いが多い文章に頭を痛めながら読み進めると、手術の効果がチャ―リイに現れ出し、次第に文章は理知的なものに変わっていく。この次第に知識を獲得していく表現方法は実に画期的であると思う。
本書を読む上で印象に残っているのが、タイトルにも冠されている、チャ―リイと同じ手術を受けた白ネズミであるアルジャーノンだ。ここは便宜上彼と呼ぶが、彼は物語の各部でチャ―リイの行く末を暗示するかのようにふるまう。人の心とは何か、知識とはなにか、本書を読むことで自然と考えずにはいられなくなるだろう。
手術を受ける前と受けた後、どちらのチャ―リイに対しても、我々は自分との共通点を見出すことができるだろう。人間は誰しも、己の無力さや、周囲との違和に対する悩みを抱えながら過ごしている。そんな自分と、主人公であるチャ―リィを自然と重ね合わせてしまうのだ。
必ずしも知識を得ることが幸せにつながるとは限らないが、イギリスの経済学者、ジョン・スチュアート・ミルはこんな言葉を残している。
「満足な豚より不満足なソクラテス」
これは、功利主義の観点から見た人生の質的な価値について言及したものであるから、多少本来の意味からずれてしまうが、やはり人は知識を捨て幸せになれるとしても、一度得た知識を捨てることはしたくないのではないだろうか。
それは、本書の後半で下に戻りつつあったチャ―リイが望んだこととも一致する。
結局のところ、馬鹿と天才。はたしてどちらが幸せなのだろうか。本作を読むと、自然とその様なことを考えずにはいられなくなる。
読書記録01:姑獲鳥の夏
あらすじ
民俗学とミステリーが融合した小説。舞台は第二次世界大戦後の日本。古本屋の主人「京極堂」こと中禅寺秋彦が、久遠寺医院で頻発する怪事件を憑き物落としにより解決する話である。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」
『姑獲鳥の夏』に関するあれこれ
民俗学の枠組みの中で書かれた推理小説である「百鬼夜行シリーズ」の第一作目。京極夏彦氏が本作『姑獲鳥の夏』の原稿を講談社に持ち込んだことが、後のメフィスト賞創設につながる。
氏の著作はそのページ数からレンガ本とも呼ばれる。初めて手に取る際は、その分厚さに威圧されるが、文章がページを跨がないというユーザビリティを考慮した特徴もあって、思いの他すらすらと読み進めることができる。
加えて本作は約600頁と、続編に比べ頁数は少なめである為、比較的手に取りやすいのではないだろうか。
また、本書には古本屋の主人である「京極堂」を始め、小説家の関口巽、「薔薇十字探偵社」の私立探偵、榎木津礼二郎。刑事の木場修太郎。等、まるで漫画のキャラクターのような個性を持った魅力的な登場人物が多数存在する。そのような点からも、一度読み始めたらはまること間違いなしと言えるだろう。
ちなみに、シリーズ通して作品に冠せられている妖怪が作中に実体として登場することはない。
感想※若干のネタばれあり
トリック自体は、信頼できない語り手による叙述トリックというシンプルなもの。京極堂の憑き物落としによって、真相が明かされる。
出版からかなりの年数が経っているので、もしかしたらおおよそのトリック自体は読んでいる途中で気付いてしまうかもしれない。
だが、本書の注目すべき点はそこではなく、氏の卓越した妖怪や宗教その他諸々に関する蘊蓄であると私は思う。ここを面白いと思うか、くどくて読みづらいと思うか、それによって、本書に対する評価は百八十度変わるのではないだろうか。